日記 好きなアニメについて

休みの日は何してるんですか?という質問に対して、アニメを見たりしてます…と答えると、「一番好きなアニメは何ですか?」と聞かれる流れ、割とありませんか…?

先月の日記でもそういう話をしたんですけど、やっぱそういう聞かれ方をすると困ってしまうわけです。

しかし一番とは言わずとも、自分はどういうアニメが好きなんだ?ということぐらいは答えられた方がいいような気がして、それをちょっと考えてみようと思います。

まず、今年見てて楽しかったアニメを挙げると、こんな感じです。

BIRDIE WING
私の百合はお仕事です!
スキップとローファー
山田くんとLv.999の恋をする
推しの子
BanG Dream! It's MyGO!!!!!

質問をされたときに困らないように、自分が見て楽しかったアニメについて振り返って、どういうアニメが好きなのか改めて考えてみようと思います。

①広い意味で日常系の作品である
自分の一貫した好みの偏りとして、まず、ファンタジーとか冒険ものとか、現実でない場所を舞台とした作品には入り込めない、という条件があります。
そういう広い意味での日常系の作品ばかりを摂取しています。
日常系じゃないアニメが全くダメなわけではないのですが、何故か超常現象が起きると作品に入り込めなくなってしまう呪いにかかっていて、結局見ているアニメを振り返ると、基本的に現実を舞台にしたものが多いです。

自分は現実逃避でアニメを見ている面もあると思うのですが、その割には現実世界に対する執着心もあるようです。推しの子は特に、「芸能界ってこういう感じなんだ~」みたいな現実世界に対する好奇心で見ていた面が割とでかいです。似たような目線で見ていたアニメだと「ハコヅメ」とか「SHIROBAKO」があります。

あとは日常系のアニメに日常を求めているみたいなところがあると思います。
日常系アニメみたいな日常が自分にはないからこそ、アニメで摂取しようとしているみたいな感じです。
現実世界は感情を動かす機会が少なく(感情を邪魔にさえ感じることも多く)、また慌ただしく、より殺伐としているところがあります。
日常系アニメは自分にとって逃避先のユートピアみたいなところが多分あります。

超常現象が起きると全くダメというわけではなくて、ヒーラー・ガールは超常現象が起きてはいるんですけど、音声医療が普及している世界での日常にフォーカスしているので日常系だと捉えています(割とガバガバではある)。
BIRDIE WINGは広い意味でも日常系とは言いにくい上に超常現象っぽいことも起きますが(イン・ザ・ゾーンって何?)、そういうアニメも好きになることはもちろんあります。


②毒気がある
人間の黒い部分や狂った部分を描いている作品に惹かれることが多いです。
毒気がないとか、登場人物がみな真っ当である世界(「やさしいせかい」的な…)はどこか退屈に感じてしまうところがあります。

これが何故なのか分からないのですが、現実の世の中や自分自身の黒い部分とか狂った部分をアニメの中で発見できると嬉しくなる、みたいなところがあって、毒や狂気によって生まれているリアリティが好きなのかもしれません。
実際、毒や狂気の中でも動機が理解できないとか、単に露悪的であるだけ、みたいなものはそんなに好きじゃない気がします。

スキップとローファーでいうと江頭さんの嫉妬心とか、シマくんの他人に対する辛辣なジャッジとかにハッとさせられるというか、作品に引き込まれるきっかけになりました。


③心理描写、テンプレ的ではないキャラの性格
「おねロリ」とか「ヤンデレ」みたいな定型表現で括れるジャンルやキャラもそれはそれでいいけど、一言では説明できなくて説明しようとしたら言葉がたくさん要るようなキャラや作品が好きです。

この登場人物はこういう性格だからこういう行動をしていて、それ故にこのキャラと対立してるんだな~みたいなことを考えたりするのが好きだったりします。

今見ているMyGOとかはまさにそういう楽しみ方ができる作品だと思います。
バンドに参加している動機はそれぞれ別で、それ故にすれ違っている様が面白いです。
そよは自分の唯一の居場所だったCRYCHICを復活させるため、立希は燈と一緒にいるため、愛音は自己顕示欲を満たすためにそれぞれバンドに参加しています。
その動機はそれぞれの出自や性格と結びついていて、例えばそよは孤独な家庭環境から居場所を求めていて、それが周囲に気配りする動機にもなっています。反面、居場所への執着が裏目に出て嘘や裏切りのような行動を引き起こしています。
立希はバンドメンバーでは唯一バイトをしていて、他の裕福そうなメンバーとは家庭環境が異なるっぽく(憶測)、その分現実を見据えているところがあると思います。そうした面が、愛音の練習不足を指摘したり、バンドメンバーに執着せずすぐにサポートのベースを連れてきたりすることにつながっていると思います。一方で、常にけんか腰で言いたいことを言ってしまう性格は対人関係に問題を引き起こしていて、それ故に燈の歌詞に共感し、燈に関しては見境ない言動をとってしまう面があります。
愛音はミーハーで自己顕示欲が強く打算的という短所がありますが、一方で社交性が高く行動力があり、新曲を誕生させたりバンドを組んだり復活させたりする原動力になっています。

こういうのをフォロワーとかとやいのやいの言いながら考えるのが好きです。
特にツイートとかを検索して自分の見立てと違う意見を発見したり自分がぼんやり思ってたことを的確に言い当ててたりするのを見つけるのが楽しかったりします。

何でこういうのが楽しいのかというと、人間を理解したいみたいな気持ちがあるのかもしれません。人が何を考えているのかは分からないし、なんなら自分が何を考えているのかもよく分からなかったりするのですが、それに思いを馳せて分かったような気になったり何かを発見したりすることに楽しさを見出している気がします。


④ツッコミどころがある、ギャグが面白い
登場人物の変な言動や、設定の変なところにツッコミを入れながら見るのは結構楽しいです。

MyGO!!!!!やわたゆりの登場人物の言動は、現実世界にいるとやりすぎのラインを越えている気がします。果乃子が看板を破壊しているシーンや長崎そよがLINEを連投しているシーンはどうしても面白いです。いや、ここだけ取り出すと単に極端な行動でキャッキャしているだけみたいですね…。
登場人物は大まじめに行動しているのに、客観的に見ると結構極端な行動をしている、そのギャップに面白さがあるということなのかなと思います。

「山田くん~」はシンプルにコメディとして面白かったです。ひねくれた性格のせいか、笑わせに来てるところで笑えるアニメって自分にとってはそんなに多くないのでこういうアニメはとても助かります。


⑤萌え
ここまで書いて気が付いたのですが、大前提としてそもそもキャラに萌えられないと入り込めないです。
これはオタクの性(さが)ですね…。

今度から、好きなアニメを訊かれたらこのブログの内容をめっちゃ早口で詠唱しようと思います。

一番好きなモノを訊かれると困る話(日記)

好きなアニメとか好きな音楽とか人から聞かれると結構困りません?これって僕だけですかね?
僕は一番好きなアニメは?一番好きなアーティストは?と言われると結構困ってしまいます。

別に好きなものがないというわけではないはずです。日々アニメを見ていて、好きなだと思うものは見続けるし、音楽についてはプレイリストだってよく作っています。

でも、ひとから急に聞かれると困るというか、「特にこれが好き」とか「一番これが好き」みたいなものを挙げろと言われると何も浮かばなくなるのです。

ちょっと迷った後に「今期はこれを見てるよ~」とか「最近はこんなのを聴いてるよ~」みたいな感じで返すのですが、これは逃げの答えのような気もします。
一体何故一番好きなものを訊かれると困ってしまうのか…

まず、好きなものがたくさんあって一番を決められないみたいなところがあります。

世の中には、一つの作品にハマってそれを何度も何度も繰り返し摂取するタイプと、常に新しいものを求めて漫画も曲もたくさん開拓するタイプの、大きく分けて2種類のオタクがいて、自分は後者です。

例えばTwitterを見ると、恋アスのことがずっと好きでずっとその作品のことをつぶやいているタイプのオタクがいます。その人は好きな作品を訊かれると迷いなく恋アスと答えるでしょう。

僕も特に好きな作品みたいなのはもちろんあるんですけど、それぞれが違った方向で良さを持っているし、その時々の自分の気分にもよって好きなものが変わるので、これが一番みたいな感じで順位を決めるのってやっぱ結構難しい気がします。

いや、一途に追っているみたいな作品とか作家がなくて、常にその時その時でハマっているものが変わるみたいなタイプのオタクであっても、確固たる自分なりの判断基準があれば順位を付けられるものなんでしょうか?謎です。

あとまあ、日陰のオタクにとっては、そもそも自分の好きなジャンルがニッチなので、外側にいる人に対して本当に好きな作品の名前を挙げたところで、相手も知らないので話が進まないみたいな問題もあります。

そこで自分がそれを好きな理由をプレゼンテーションできれば話は進むのかもしれないけど、それってめっちゃハードル高いですよね。漏れは漏れだからこういう作品が好きなわけで、背景を全然共有していない相手に作品の良さを語っても、賽の河原状態になってしまわないですか!?

とか、もっともらしく一番について語るのは難しい、という話をしてみましたが、そもそも僕は好きな食べ物は?とか、どんな人が好きか?みたいな質問にも結構困らされたりします。それって単に優柔不断、あるいは自己が確立されていないだけ、というコト…!?

創作覚え書き 物語とは…

去年、好きな漫画のSSの二次創作で同人誌に参加してから、書くのたのし〜〜となっています。

しかし、とりとめない会話とかモノローグを書くのは割と好きなのですが、ちゃんとしたお話を書くのは難しい!となりました。
そもそもちゃんとしたお話って何だよって話なんですけど、何となくオチがあるというか、明確な筋道があって落としどころがあるみたいな感じです。ふわっとしているのですが、そもそも、「ちゃんとしたお話」について自分の中で定義できているのであれば、書けるようになっていてもおかしくないはずです。逆に言えば、よく分からん…となっているので、書けないのも仕方ないわけです。

そもそも、僕は小説を書いた経験はほとんどありません。ほとんど、というのはゼロではないということで、中学生の時に友達がいなさ過ぎてイマジナリーフレンドを小説世界で錬成していたことはあります(黒歴史すぎる)。しかし、当時書くことを楽しんではいたものの、誰かに見せることとかを目標にしていたわけでもなく、結局完成には至らなかったわけです。

せっかく今そこそこ書くのが楽しいので、プロットの作り方的なものを勉強できればと思い、最近いくつか本を読んだりしています。そもそも、勉強すればプロットって作れるようになるの?という疑問もわくものですが、どうやら最近読んだ本によると誰でもお話は作れるようになるらしいです。

もちろん、もともとお話を作るのがうまくて、学ばずともできる才能タイプもいるらしいのですが、プロの小説家や漫画家でさえも、必ずしもそういうタイプばかりではないらしいです。端的に言えば、世の中の物語には、ある程度共通の構造やパターンがあって、それを習得できればお話を作れるようになるんだとか。既存の作品の構造を下敷きに物語を作る練習をするのは結構効果があるらしいです。

ハリウッドのようなプロの集まりでさえも、同一の構造の引用や再利用を良く行っているみたいです。それはオリジナリティがないのでは?と一見思われますが、作品には物語の構造以外に様々な要素があるので、似た構造を持っていても実際には全く別のものができるという算段です。そもそも世の中にある物語の構造はギリシャ神話の時代からリサイクルされ続けているという説もあるらしいです。

5歳児くらいの小さなこどもでも、自作のお話を作ったりしますが、その内容はそれまでに読んだ絵本や見たアニメがベースになったものになるらしいです。それは当たり前だろって感じですが、大人でもプロでもあまり変わらなくて、よほどの天才でない限りは、無から何かを生み出しているわけではなくて、数多のコンテンツを摂取したうえで、意識的であれ無意識であれ、そこから得た要素を栄養として新たな作品を生み出しているということです。

※もちろん、既存の作品のディテールをマイナーチェンジしたものは流石に創作とは呼べないようです。新しいものになるためには、一度ディテールから離れて物語を抽象的に捉える必要があるみたいです。

さて、そんなことを言いながらも僕はストーリーを追うのが結構苦手で、映画とか漫画とかアニメとか小説とかいろんなコンテンツを鑑賞しても、これって何の話だったんだっけ?となることが多いです。オタクとしては恥ずかしくてあまり言いたくないことですが、はっきり言って複雑な話は苦手だったりもします。なかなかこのまま数だけ作っても、うまくお話を構成するのは難しそうだな…という壁を感じており、どうせなら本とかを読んで意識的に取り組んでみようか、となりました。例えて言うと、英語のネイティブじゃないので英文法から勉強して理屈として理解しながらじゃないと話せるようにならないんじゃね?みたいな感じです。物語の構造を意識するようになることで、鑑賞する際にもストーリーの理解力を高められないかなと思っています。作る練習をすれば、結果として見るときにも構造が入ってきやすくなるのではと目論んでいます。

ということで、創作ビギナーとして経験値ゼロからお話を作っていくために、いろいろ本を読んだりして基本から勉強しています。割と普段ツイッターで絡む面々でも二次創作をやっている人はいますし、まあチラシの裏(古語)みたいな感じではありますがそういう人にはもしかしたら興味がある話題かもしれないと思い、記事にまとめてみることにしました。 

*物語とは
そもそも物語とは何なのでしょうか。いくつかの本を読むと、なんとなく基本形みたいなものはこんな風に書いてあります。

物語の基本形
・時間の流れに沿って、始まりから終わりに向かって展開する
・何か問題があって、最終的にそれが解決する
(あるいは目標があって、それを達成する)
・解決するまでの過程では、日常から非日常に行って、また日常に帰ってくる

とりあえず、世の中で物語と言われるものは大体この基本形に沿っているよ~という感じで理解しておいても、まあ間違いはない気がします。例えば鬼滅の刃では、ねずこ(変換できない)を人間に戻すことや無惨を倒すことを目標に物語が進んでいきます。スポーツ漫画なら勝利を目指すもので、ラブコメ漫画なら恋愛の成就を目指すものです。1話完結方式の漫画やアニメでは、その1話の中で小さな物語が展開していると言えそうです(ギャグ漫画やコメディといわれるものはこれに入るものが多そうです。日常系もこっちのパターンが多い気がします。)
「日常から非日常に行って、また日常に帰ってくる」という形式は、神話や昔話や現代の冒険ファンタジーに連なる物語の基本形らしいです。これは子どもや知識のない人にも分かりやすいストーリーとして分かりやすいということもあり、昔からよく使われてきた型のようです。

*物語の構成
物語を構成するための枠組みとして、「三幕構成」「起承転結」などが良く使われているようです。別にこの枠組みを意識せずとも物語を作ることはできるであろうけど、使うと便利だよ、という位置づけのものだと理解しています。

三幕構成とは、物語の流れを「設定→対立→解決」と整理する考え方です。
第一幕・設定とはその名の通り場所や時代、そして主人公の性格や目的や課題などが示されるパートです。
第二幕・対立とは主人公が目的達成や課題解決にあたって障害と対立するパートです。
第三幕・解決とは目的達成や課題解決、あるいは失敗など何らかの結果が示されるパートです。

起承転結という型もありますが、三幕構成と言ってることは同じ説もあるらしいです。
第一幕・設定=起
第二幕・対立=承~転
第三幕・解決=転~結
みたいな感じです。
転はどっちに入るんだよ、と思いますが、結構人によって括り方が違うっぽいです。
問題解決・目的達成のパートを「転」とする人もいれば、それを「結」とする人もいます。
前者の場合は、「結」は問題が決着した後の余韻みたいな感じで括っているらしいです。

ちなみにこの起承転結は等分で時間やページ数が割かれるかというとそういうわけじゃないみたいです。
4コマ漫画は1コマずつで起承転結にするのが基本みたいな話も聞いたことありますが、映画とか漫画だったら「承」にあたる部分が80%だとか、40%だとか、いろんな説があるらしいです。

結局、起承転結はそういう風に使い方がふわっとしているので、三幕構成の方が各パートが果たす機能は分かりやすいみたいなところがあります。

応用編としては、「設定→対立→解決」の大きな軸が一つあって、さらに小さい「設定→対立→解決」がマトリョーシカのように含まれていることはよくあるようです。例えば、映画でいえば120分の中で一つの大きなドラマがあるけど、最初の30分、その中の最初の10分の中にも、小さなドラマがある、みたいな感じです。
あとは、問題が解決すると思ったら別の問題が出てきて流れが複雑になる、みたいなパターンもあると思います。連載漫画とかは、最初から終わりが決まってなかったりするので、最初にでっかい目標を立てといてそこに至るまでに話があっちこっちに行く、みたいなことはよくある気がします。

*日常系について(脱線)
僕が良く摂取する漫画とかアニメとかは「日常系」というジャンルで、必ずしも上記の基本形には沿っていないように見えます。じゃあそれが「物語」と呼べないのか?というと、うーんまあ言葉の定義の問題な気もする…という感じですかね。別に「物語」と呼べるものが偉い、というわけでもないですが、上記の定義に当てはまらないものは物語じゃない、みたいな言い方をしてしまうとなんか言い過ぎな感じもしてしまいます。

よく、日常系は「ストーリーがない」みたいな感じで言われることもあるんですけど、それはあくまで、ここまで書いてきたような一般的に物語/ストーリーと言われるような型にはまっていないからというだけだと思うのです。時間が経過する中で進路について決断を迫られたり、イベントが起きたりして生活にちょっとした変化が生じることをストーリーと呼んでも別にいいような気もします。

目標とか解決すべき課題ががあるからいいとか悪いとか、そこにあまり優劣を持ち込む必要はないと思います。日常系という言葉はいい得て妙で、僕たちが日々生きている日常も、それ自体に目標とか問題提起みたいなものがあるかというとそうでもなく、割と淡々と続いていくところがあります。いや、絶対達成したい夢があってそれのために生きるみたいなドラマチックな人生もありえますが、そうじゃない人も結構多いわけです。ただ生きていくために生きるなんてこともよくあるわけですし…。

そんな日常の一場面を描く作品、まさにslice of lifeですが、その切り取り方や小さな心の動きに共感したり笑わされたり、そこから気付きを得たりする、そんな楽しみ方があるのが日常系なんじゃないですかね。

(脱線からの余談)
ゆるキャン△は最初に問題提起があって、それを解決するために進んでいく話というわけではないですが、話が進む中で登場人物の関係性や内面には変化が生じていくような、日常系の作品だと思います。一方、劇場版のゆるキャン△では「キャンプ場を作る」という明確な目標が話の軸としてありました。それ自体の賛否は置いといて、幅広い層に向けた映画としてはやはり一般的な定義での「物語」であることが求められるのだな~と思いました。多くの人はエンターテイメントに日常ではなく非日常を求めていて、ゆえに日常系では物足りなく感じる、ということなのかなーと解釈してます。

この記事では、いろいろ大枠的なことは書いてみたものの、物語の具体的な中身にはあまり触れていけなかったな、と思います。そのあたりについてもそのうちもうちょっとメモをまとめてみたいと思います

Moe Tracks おすすめ音楽

今年は毎月日記を書くという縛りを自分に課しています。

今月は好きな音楽についてです。

 

アニソンや声優ソングやVtuberも良いのですが、今回紹介するのはそのどれにも属さない、インディーな存在で、でもジャケットやMVには確かに「萌え(古語?)」がある、そんなアーティストたちです。

ジャンル的には、ポップでありながらもJ-popど真ん中というよりは、ダンスミュージックやヒップホップの要素があり、そこが僕の癖に刺さってたりします。

人気は広がりつつあると感じますが、もっともっと多くの人に聞かれるポテンシャルがある!と思っているので、気に入った曲があったら他の人にもぜひオススメしてみてください!

 

○シンガー部門

1.中村さんそ

中村さんそ先生は絵も描けて曲も作れて詩も書けて声がとても萌えです。

ちょっと憂鬱な歌詞と独特なねっとりした感じの歌い方がとても癖になります。

ポップではあるのですが、メロディが独特で、声と歌詞とマッチして個性的な中村さんそワールドが作り上げられています。

このmoremoremoreという曲はかなりお気に入りです。

ダウナーな曲調で、ループするビートが心地よく、だんだんとメンヘラが迫ってくるような迫力があります。

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メロディーの気だるい雰囲気と心地よいビートが癖になりますね。

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2.をとは

をとは先生は絵も描けて映像も作れて詩も書けて声がとても萌えです。

いろいろなトラックメイカーを招いた音楽プロジェクトのような形です。

MVはかわいくて、1st Albumは特にライブで映えそうな明るくて元気の出る曲が多いです。

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客演ですがコロナ禍を歌ったこの曲もとても好きです。

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3.メトロミュー

メトロミュー先生は、音楽を作りながら宇宙を旅しているシンガーソングライターです。

優しい歌声とどこか切ないメロディーと電子音が溶け合って、孤独で気ままな宇宙旅行の世界観を作り出しています。

この「プラズマ」のMVめっちゃ好きなんです。ビジュアルと歌詞とメロディと声が全部噛み合ってる感じがあります。

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メロディが良すぎる。(良さを言語化できない)

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最新曲のBaby Galaxyは疾走感があり、低音がとても気持ち良いです。

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こういう仮想の世界観とバーチャルシンガーという存在はとても相性が良いですね。

 

 

○トラックメイカー部門

もともと、シンガー部門で紹介した声がかわいいアーティストたちを掘っていくと、自然とトラックメイカーにも着目するようになりました。

 

1.Toccoyaki

Toccoyaki先生は好きなシンガーの作曲やアレンジでよく参加されています。エレクトロで踊れて音がかわいくて、中村さんそやをとはのMoe Voiceととてもマッチしています。

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このmya-oは中村さんその紹介でも取り上げましたが、Toccoyakiリミックスバージョンもかっこいいです。

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この曲もとてもかわいい曲です。をとは先生の歌詞もとても良いです。

異様な中毒性があります。

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2.Nyankobrq

Nyankobrq先生はエレクトロ、ヒップホップなど幅広い曲を作るトラックメイカーで、自身もラップを担当されています。

かわいいドラムンベースの代名詞とも言える(?)有名な曲です。

バーチャルシンガーのsomuniaとのコラボ曲です。

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中村さんそとコラボしたトラップの曲もおすすめです。声が萌えです。

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4つ打ちの曲も良いですね、nyankobrq先生の曲は幅が広いです。

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まだまだ紹介したいんですけど、今月はここまで…!

 

分かりやすいくくり方ができないので、Moe Voice Danceという言葉でくくっています。

このプレイリストはインストの曲やメジャーなアーティスト、Vtuberも入っておりちょっと雑多ですが、カワイイ&かっこいい、をテーマに好きな曲を集めているので良ければ聞いてください。

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日記 身の程とかバランスとか

ほんとに今更になっちゃったんですけど、わたなれ5巻面白かったですね~

 

※以下、普通に5巻までの内容をネタバレしてます

 

ところで5巻を読んでいるとき、結構な時間を「れな子、なんか辛そう…」と思いながら読んでいました。

れな子は美人で華やかな恋人を持っていて、スクールカーストの最上位にいて、客観的に見るととても恵まれています。しかし、彼女自身はというと、そのままでは恋人たちに受け入れられないと思い、努力しなければと思っているようです。実際、5巻冒頭から早速、自らに努力を義務付けるべく恋人たちに「契約書」を提示しました。

実際、釣り合わないと思ってしまう気持ちも理解できます。いくら真唯と紫陽花さんが自分のことを好きだと言ってくれても、美人だったり、優しかったり、お金持ちだったり、社交的だったり、成績が良かったりと、客観的に良いところをたくさん挙げられるような人たちと自分を比べると、分が悪いのは仕方ないことです。

でも、「恋人」との関係でそういう思考になるのって結構辛くないですか?
日常的に一緒にいるはずの相手に対して、常に背伸びして付き合わなければならないのはやっぱり大変だなと思うわけです。

そこで見捨てられても別にいいか、と諦めずにあがきまくるのがれな子のすごいところだなとも思います。
それと同時に、身の程を超えた幸運を一度手に入れてしまうと、結構大変だな…とも思いました。
勢いとか偶然とかいろんなものが重なって素晴らしい恋人が二人もできて、それによって初めて見える世界もあるし、分不相応だとしても自分から捨てることなんてできないのが人間の性だな…と思います。

そもそも何が自分に相応で何が不相応で、なんて言うのも自分で落としどころを見つけるしかないわけですが…

無理せずにあるがままでいられる状態が理想だと言う人もいるけど、少しは試される環境に置かれる方が結果として成長してより良いものを得られるなんて言う人もいるし…

ブコメとか見てると、お互いのバランスについつい着目してしまう自分もいるな、と思います。
互いの持っているものだったり、与えたものだったりが、不釣り合いに思えるとその関係にあまり納得が行かなくなってしまうというか。当人たちが納得していれば別にいいはずなんですけどね…!僕はバランス厨なのかもしれないです。

…幸せってなんだろう?(広幡詩季)

日記 会話について

今年は毎月日記を書くぞ~と息巻いていたのですが、去年の11月ぐらいからいろいろな事情でろくに漫画を読んだりアニメを見たりする余裕がなく、ブログも全然かけてないです。

 

でももう3月は終わっちゃうし、せめて更新はしたい…ということでお蔵入りというか、もうちょっとちゃんと整理しようかと思っていた日記をここで投下します。

 

何が言いたいかわかんない感じになってると思います…

 

 

2022年は、「無意識」に着目することが多く、個人的にそれに関する本を読んだり、YouTubeで動画を見たりしていました。職場の対人関係についてどうしたものか…と思ったり、そもそも人との雑談って苦手なんだよな…と思ったりする機会があり、それに対して何らかの改善の糸口を探っていたところでたどり着いたテーマです。よくメンタルヘルス系のYouTubeとかを見ていると、認知行動療法という言葉が出てくるのですが、これは自分が無意識でやっちゃっている癖に対して、意識を働かせることで問題を解消しようというものらしいです。なるほどこれは便利かもしれないと思い、自分の会話に対する苦手意識の原因となっている無意識の反応やその背後にある思考を辿ってみることにしました。

人との会話が終わった後に一人で反省会をする、というのは会話へたくそあるあるだと思うのですが、もしシミュレーションゲームのように、あるいは将棋の試合のように、一つの発言をするまでに何十秒、何分と最善手を調べたり考えたりしてから発することができるのであれば、後から反省する必要はあまりないかもしれません。現実には卓球のラリーのように、次から次へと返答が迫られ、返せずにいるとちょっと気まずい時間が流れてしまいます。いえ、会話は卓球より難しいかもしれません、なぜならピンポン玉は卓球台の上でラリーが行われますが、会話のフィールドは無限大で、どこに向かっていくか分からないからです。人間はAIではないので、考えうる膨大な会話のパターンを事前に学習して、即座に最適解を出すなんてこともできません。

あるとき、初めて話す人とのお酒の場で、「キミは「そうですね」としか言わないねえ!」と指摘されました。確かに…と思って、なんでそうなるんだろう?と考えた結果、僕は無意識のうちに「対立や不和を避ける」「自分自身を守る」という指針でコミュニケーションを行っていることに気づきました。よく知らない人を相手とした会話の際に、「こんなことを言ったら相手を怒らせるのではないか」「あるいは自分がバカだと思われて、不利益を被るのではないか」といったシミュレーションが高速で頭の中を駆け巡っていて、それゆえに言うべきことを考えることができなくなっていたのでした。さらには「相手から自分が評価されている」という意識が緊張状態を作り出して、頭が真っ白になってしまうこともありました。そんなこんなでその場に応じた返しをすることができず、最も無難な返答としてひたすら同意を示す、という方針をとっていたわけです。

今まであまり指摘されることもなかったので、「そうですね」で押し切るスタイルで割とやり過ごしてきたのですが、相手から見れば、その返しでは会話が発展しないのでつまらないとのことでした。なるほど~ということで、僕が思い至ったのは、そもそも「対立や不和を避ける」「あるいは自分がバカだと思われることを避ける」という前提条件をもう少し見直すべきではないか、ということです。だからといってけんか腰になろうというわけではなくて、「こういうことを言ったら相手は怒るかも」「バカだと思われたら損をするかも」みたいな懸念は実は思い込みでしかないので、まずそういう思い込みを疑ってみよう、という話です。

自分の思い込みについて考えてみると、割と他人の怒りの沸点を低く見積もりがちなところがあって、もうちょっと(今までよりも)ずけずけとものを言っても何の問題もないし、むしろそっちのほうが面白がられるのでは?という結論になりました。さらに言えば、そもそも「相手を怒らせてはいけない」という規範自体も見直すべきものかもしれない、ということが分かりました。自分が思ったことを正直に言って、それを相手が気に食わなかったとしても、最悪相手と自分の仲が悪くなって終わるだけです。(もちろん、相手と利害関係があったり、相手が拳銃を持っていたりしたら、より悪い結果が生じうるので、もうちょっと慎重になるべきかもしれません。)

さらに考えると、「対立や不和を避ける」という発想の背後には、どんな人からも好かれなくてはならない、という思想が根付いているようでした。それは美徳のようにも思えますし、実際敵を作らない性格はある程度生きることに役立ってはいますが、それは弊害も生み出していました。例えば、人に合わせてばかりいるので自分の興味関心がよく分からなくなってしまうとか、人畜無害すぎてつまらない人間だと思われてしまうとか、言いたいことを言わずにいると損をしたりストレスが溜まったりしてしまうとか、そういう問題があることが分かりました。そういう弊害に対してなるほど良くないなと思うことがあり、自分なりには、ちょっと不安に思ってももっと思っていることを言っていこう、という結論に至ったのでした。

また、「バカだと思われたくない」という考えの根底には、自分が賢いと思われたい、それによって自分のプライドを守りたいという意識が潜んでいるみたいです。しかし、そもそもバカな発言をしてしまうということは自分がバカだということであり、それは認めざるを得ない事実なのです。それと同時に、別にそのあと学んでそんな発言は繰り返さずに済むようになるかもしれません。それならば発言によって学びの機会を得たということでラッキーでさえあります。比較して検討してみたところプライドを守るために黙っているよりも、バカだと思われた方が自分にとっても気づきが多いし、相手も壁を感じにくくツッコんだりしやすいのでそこからコミュニケーションが生まれやすいのでお得なのでは、という説もあるらしいです。

あと、対立してしまうことや失望されることを恐れていると本当に人と仲良くなることはできないらしいです。まあそりゃそうかも、何事もなくこの場をやりすごしてえ…と思いながら会話をやり過ごしたところで、そこでは自分自身でいることはできず、たえず不安だけが残ってしまう状態に陥るらしいです。まあ、こんな風にいろいろと自分の考えの背景みたいなものは見えてきたのですが、それを意識したからといって急に会話がうまくなるわけはなく…まあそれでも失敗しても別にまあいいか…と思うようにすることで何とかやっています…。

前の記事の続き…関係をはっきりさせるか問題

世の中には、自然と恋人関係になっているみたいな現象も存在するらしいけど、身の回りとかアニメとか漫画とかを見ていても、「告白」と「承諾」があって初めて「恋人」としてお互いが認知する、みたいなところがあるようです。
(ちなみにこれは日本特有の文化らしいです。外国では別に告白はせずなんとなく恋人関係になるパターンが多いらしいです。)

裏を返して言えば、「告白」ってイベントを通らない限り、友達関係のまま、ということになります。
前回の記事で、恋人の座には通常一人しか座れないからバトル性がある、的なことを書いたのですが、まさに告白も、白黒はっきりつけるイベントという意味でバトル性があるかもしれません。

そう思って考えてみると告白というシステムは結構駆け引きを求められると思います。
他の人に先を越される可能性が常にありつつ、相手との親密度が低すぎる状態で告白をすると、成就しない可能性がある。この2つのバランスを取りながら最適なタイミングで告白をしないとならないです。告白は別に1回しかしてはならないというルールはないですが、1回断られたのに何回も告白すると印象が(多分)よろしくないので、タイミングはめっちゃ大事そうです。
さらに、告白した後に相手とも友人関係でいたいとなると、難易度が上がります。告白をしたことで関係がはっきりして、その後の関係が今までと変わってしまうかもしれません。それを踏まえたうえで、告白をするのとしないのはどっちが自分にとって幸せなのかという問題もあります。この比較を間違えてしまった結果、負けヒロインとなってしまった幼馴染は統計上きわめて多いらしいです。(国際幼馴染学会調べ)

さらに言えば、告白した後に承諾されるまでの猶予期間が設けられることもあります。この状況は一体何なんだ?その間にほかの人が割って入ってきたりしたらどうなるんだ!?みたいな感じでより情勢は複雑になり得ますね。

 

一方、「友達」については、別に友達宣言をする必要はないらしいです。むしろ友達かどうかをはっきりさせようとする行為は時にドン引きされてしまうようです。

www.nicovideo.jp

実際、友達ってそんなに重い言葉じゃなくて、仮に「漏れたち友達だよなあ?」って言われて、実際はそう思ってなくても「勿論!」って返してしまえるぐらいには軽い言葉な気がします。ある意味安い言葉というか、それを認めてしまったことによって何か支払わなければならない代償はそんなにないかもしれません。(「友達」を認めた瞬間カツアゲしてくる奴もいるかもしれませんが…!)

「親友」かどうかってのは友達と比べると結構ムズいですね!またぞろ。2巻でもこのあたりの話がありました。「私たちって親友だよね…?」って表立って確認するのは結構怖いですね。自分は相手のことを親友だと思っているのに相手はそうでもなかったらやっぱりショックみたいなところがあります。そもそも「親友」は「友達」や「恋人」と比べるとかなり定義が曖昧であって、その意味することが人によってあまりにも違うからこそ、すれ違いが生じがちなんじゃないでしょうか。

 

追記

百合の場合は告白と同時に同性を恋愛対象として意識するかどうか?という点もはっきりさせてしまうのでさらに複雑ですね!