日記 会話について

今年は毎月日記を書くぞ~と息巻いていたのですが、去年の11月ぐらいからいろいろな事情でろくに漫画を読んだりアニメを見たりする余裕がなく、ブログも全然かけてないです。

 

でももう3月は終わっちゃうし、せめて更新はしたい…ということでお蔵入りというか、もうちょっとちゃんと整理しようかと思っていた日記をここで投下します。

 

何が言いたいかわかんない感じになってると思います…

 

 

2022年は、「無意識」に着目することが多く、個人的にそれに関する本を読んだり、YouTubeで動画を見たりしていました。職場の対人関係についてどうしたものか…と思ったり、そもそも人との雑談って苦手なんだよな…と思ったりする機会があり、それに対して何らかの改善の糸口を探っていたところでたどり着いたテーマです。よくメンタルヘルス系のYouTubeとかを見ていると、認知行動療法という言葉が出てくるのですが、これは自分が無意識でやっちゃっている癖に対して、意識を働かせることで問題を解消しようというものらしいです。なるほどこれは便利かもしれないと思い、自分の会話に対する苦手意識の原因となっている無意識の反応やその背後にある思考を辿ってみることにしました。

人との会話が終わった後に一人で反省会をする、というのは会話へたくそあるあるだと思うのですが、もしシミュレーションゲームのように、あるいは将棋の試合のように、一つの発言をするまでに何十秒、何分と最善手を調べたり考えたりしてから発することができるのであれば、後から反省する必要はあまりないかもしれません。現実には卓球のラリーのように、次から次へと返答が迫られ、返せずにいるとちょっと気まずい時間が流れてしまいます。いえ、会話は卓球より難しいかもしれません、なぜならピンポン玉は卓球台の上でラリーが行われますが、会話のフィールドは無限大で、どこに向かっていくか分からないからです。人間はAIではないので、考えうる膨大な会話のパターンを事前に学習して、即座に最適解を出すなんてこともできません。

あるとき、初めて話す人とのお酒の場で、「キミは「そうですね」としか言わないねえ!」と指摘されました。確かに…と思って、なんでそうなるんだろう?と考えた結果、僕は無意識のうちに「対立や不和を避ける」「自分自身を守る」という指針でコミュニケーションを行っていることに気づきました。よく知らない人を相手とした会話の際に、「こんなことを言ったら相手を怒らせるのではないか」「あるいは自分がバカだと思われて、不利益を被るのではないか」といったシミュレーションが高速で頭の中を駆け巡っていて、それゆえに言うべきことを考えることができなくなっていたのでした。さらには「相手から自分が評価されている」という意識が緊張状態を作り出して、頭が真っ白になってしまうこともありました。そんなこんなでその場に応じた返しをすることができず、最も無難な返答としてひたすら同意を示す、という方針をとっていたわけです。

今まであまり指摘されることもなかったので、「そうですね」で押し切るスタイルで割とやり過ごしてきたのですが、相手から見れば、その返しでは会話が発展しないのでつまらないとのことでした。なるほど~ということで、僕が思い至ったのは、そもそも「対立や不和を避ける」「あるいは自分がバカだと思われることを避ける」という前提条件をもう少し見直すべきではないか、ということです。だからといってけんか腰になろうというわけではなくて、「こういうことを言ったら相手は怒るかも」「バカだと思われたら損をするかも」みたいな懸念は実は思い込みでしかないので、まずそういう思い込みを疑ってみよう、という話です。

自分の思い込みについて考えてみると、割と他人の怒りの沸点を低く見積もりがちなところがあって、もうちょっと(今までよりも)ずけずけとものを言っても何の問題もないし、むしろそっちのほうが面白がられるのでは?という結論になりました。さらに言えば、そもそも「相手を怒らせてはいけない」という規範自体も見直すべきものかもしれない、ということが分かりました。自分が思ったことを正直に言って、それを相手が気に食わなかったとしても、最悪相手と自分の仲が悪くなって終わるだけです。(もちろん、相手と利害関係があったり、相手が拳銃を持っていたりしたら、より悪い結果が生じうるので、もうちょっと慎重になるべきかもしれません。)

さらに考えると、「対立や不和を避ける」という発想の背後には、どんな人からも好かれなくてはならない、という思想が根付いているようでした。それは美徳のようにも思えますし、実際敵を作らない性格はある程度生きることに役立ってはいますが、それは弊害も生み出していました。例えば、人に合わせてばかりいるので自分の興味関心がよく分からなくなってしまうとか、人畜無害すぎてつまらない人間だと思われてしまうとか、言いたいことを言わずにいると損をしたりストレスが溜まったりしてしまうとか、そういう問題があることが分かりました。そういう弊害に対してなるほど良くないなと思うことがあり、自分なりには、ちょっと不安に思ってももっと思っていることを言っていこう、という結論に至ったのでした。

また、「バカだと思われたくない」という考えの根底には、自分が賢いと思われたい、それによって自分のプライドを守りたいという意識が潜んでいるみたいです。しかし、そもそもバカな発言をしてしまうということは自分がバカだということであり、それは認めざるを得ない事実なのです。それと同時に、別にそのあと学んでそんな発言は繰り返さずに済むようになるかもしれません。それならば発言によって学びの機会を得たということでラッキーでさえあります。比較して検討してみたところプライドを守るために黙っているよりも、バカだと思われた方が自分にとっても気づきが多いし、相手も壁を感じにくくツッコんだりしやすいのでそこからコミュニケーションが生まれやすいのでお得なのでは、という説もあるらしいです。

あと、対立してしまうことや失望されることを恐れていると本当に人と仲良くなることはできないらしいです。まあそりゃそうかも、何事もなくこの場をやりすごしてえ…と思いながら会話をやり過ごしたところで、そこでは自分自身でいることはできず、たえず不安だけが残ってしまう状態に陥るらしいです。まあ、こんな風にいろいろと自分の考えの背景みたいなものは見えてきたのですが、それを意識したからといって急に会話がうまくなるわけはなく…まあそれでも失敗しても別にまあいいか…と思うようにすることで何とかやっています…。